永井 隆 と マリア奇跡の信心

永井隆とマリアの奇跡信心>



ルルドの奇跡  -永井隆 著



「昭和20年8月9日、長崎死浦上に一発の原子爆弾が炸裂した。
私は当時医科大学物理的療法科研究室にいて、
右半身に多数の硝子片切傷を蒙った。
(中略)

私は次第に貧血の自覚症状をおこし、
9月20日朝、心臓、脈拍の調子が危篤に陥ってしまったことを
自らも悟り、
枕べの2名の医師も認めた。
私の死期の近いのを知った。
暁星の田川神父様が訪問してくださった。
私は総告解をさせていただき、
終油の秘蹟をさずかった。
私は心がすっかり洗われたのを自覚した。
この世を去り、肉体から開放されることを考えると
うれしかった。
秋晴れのいい真昼であった。
私は昏睡からさめて
創をおさえている富田医師の手の下から空を見上げていた。

・・・

(歌を詠み)

筆をかりてこう紙に書いて幼児に手わたした。
そうしてまた昏睡に陥った。
胸が苦しくなって目がさめたらシェーンストークスの呼吸に変わっていた。

・・・

心臓のあたりが妙に苦しかった。
そのうちに何か全身に痙攣が起こってきそうだった。
近くで皆が祈りをしていた。
幼子のたどたどしい声がまじってきこえた。
私は生きたい、という気が起こった。
しかしまた一方神様に直接お目にかかりたいという望みも強かった。
口びるに冷たいものがふれ、
「本河内のルルドのお水だよ」と
老婆のささやくのがきこえた。
瞼にあのルルドのバラのまとい咲く岩がうつり、
すがすがしい聖母のお姿があざやかに見えた。
そうしてどういうわけでか、マキシミリアン・コルベ神父様の
お取次ぎを願えという声がきこえたようであった。
私の心は従順にそれに従った。
その時全く幼児のような単純な心であった。

・・・

ルルドのお水が、私の死につつある身体に流れ入るのを知った。
そうしてそのまま私はまた昏睡に陥ってしまった。

・・・

まさに臨終の迫っていた時にルルドのお水をいただくことによって、
ぴたりと出血が止まったのである。

罪深い私はとうとき奇跡の起こるほどの潔き身体をもってはいない。
しかしこの奇怪な現象は私の知恵をもってしては解釈できないのである。
奇跡とはとうとい現象であるから、
軽率に名づけてはならない。
けれども幼児は者を知らぬがゆえに万一謝っていたとしても、
憐れみ深き聖母はおとがめにならぬであろう。
私は聖母の光栄のために、
これが奇跡であろうと信ずるものである。
世にはルルドの聖母により人知の解釈しえないご恩恵をいただいた人が
多いはずである。」



世の中には、
奇跡という言葉にアレルギー反応を示す人も多い。
結果、その信憑性を確かめるために、
ありえない行動に出る人もいる。

押し付けないならば
信じる信じないは自由では?。



「少しは(注射で)楽になったが、
血が依然噴出してやまない。
もう体力がなくなって足を動かすのもつらい。
そのうち目がほとんど見えなくなった。
私は昏睡に陥ったらしかった。」


医師なので、
死期も分かるのは、
まさにアウシュビッツガス室状態。

アウシュビッツ巡礼を!」とまでは言わないまでも、


根性論や
宗教談義や
ヒューマニズムに燃える前に、

まずは

いのちの貴重さを実感してから、
宗教に燃えたほうがいいのでは・・・?
ということもある。


http://d.hatena.ne.jp/rogervanzila/20080815


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長崎で講演会、
永井隆博士の「摂理論」を再考

2008年08月07日


 長崎市の市立図書館で3日、長崎純心大教授の山内清海氏が「永井隆博士の思想を語る−神の摂理−」と題して、カトリック信徒であり長崎で自ら被爆しつつも被爆者治療に尽力した永井隆博士(1908‐51年)の摂理論について講演した。長崎新聞が報じた。



 永井博士は「長崎の鐘」などの著書を残し、核兵器使用の非道を訴える一方、カトリック信徒の立場で「浦上に原爆が落ちたのは神の摂理」と発言し、それが核兵器容認論とも受け取られることもあったため、一部の被爆者からは批判もある。今回の講演会は、長崎大学付属病院の医師らが、「博士の思想が正しく伝わっていない」として実行委員会を組織し開催に至ったもので約140人が参加した。



 同紙によれば、山内氏は摂理論について、「永井が特に強調した思想的背景には、原爆投下を『天罰』と噂し、それに迷っていた信者に勇気を与えたかったから。そうした人々への警鐘であり、神への信仰を説くためだった」と指摘した上で、「永井は原爆投下を神の業ではなく、『人間の愚かな業』と嘆いている。ローマ法王ヨハネ・パウロ2世の『戦争は人間の仕業です』との言葉と矛盾しない」「摂理論は原爆の苦しみの中で絶望するのではなく、もう一回頑張ろうという未来志向的で、浦上の再建と世界平和構築の再出発点だった」と述べた。



 永井博士は戦前、長崎医科大(現長崎大医学部)で助手として放射線物理療法の研究に取り組み、カトリック信徒であった妻・緑の影響などから26歳で受洗。カトリック信徒となった後は、無料診断・無料奉仕活動なども行った。



 1945年8月9日、長崎への原爆投下で自らも被爆し重症を負ったが、直ちに救護班を組織し被爆者の救護に当たった。幾度も昏睡状態に陥るという身体であったが、長崎医科大に同年「原子爆弾救護報告書」を提出。翌年には同大教授に就任した。その後、大学を休職し療養に専念するようになるが、ローマ教皇の特使が見舞いに訪れ、長崎名誉市民の称号を受けるなどした。



 永井博士は被爆後、「長崎の鐘」(1946年)、「ロザリオの鎖」(1948年)、「平和塔」(1979年)など没後に発行されたものなどを含め、10以上の作品を執筆。長崎市や、同氏が幼少青年時代を過ごした島根県雲南市には記念館が建てられている。