長崎記
「殉教と今がつながらない」
「かくれキリシタンは生きているの!?」
「殉教者とかくれキリシタンは別」
殉教・迫害時代のキリシタンは、
長崎県の大村から、外海、生月、さらに五島に避難しました。
戦う方法の問題ではありませんが、
教科書で習うような、商・産業と鉄砲伝来にも関連した、政治的な理由も関係したそうです。
浦上の4番崩れから本州方面へ連れて行かれ、
道すがら拷問されその先々で命を落とした人々も居た中、
最終的に浦上へ戻ってこられた人々です。
そして浦上は、さらに第二次世界大戦では爆心地にもなりました。
まるで被災者の姿をとどめるような、
焼け野原の中から発見され、トラピスチン(トラピスト修道会の修道女)によって保存されていた
「被爆のマリア」像が知られています。
それを見て書かれた詩を読むと、教会内にあるそれを見てでさえ、
思わず、人は争うように造られているのかと思ってしまうほどです。
今回、浦上のほか、大村近辺では伊達藩系の三ツ山、外海では黒崎・出津ほかで、
それぞれ生活の中に根付いた宗教に触れてきました。
宗教があっても病気にはなりますし、不老不死の人間も居ません。
「宗教があればいつも不幸がなくパラダイス!なのではない」とも聞きますが、
至極便利というわけでもない環境だけれど、
「生活用水+α」の潤いがあったように思うのは、気のせいでしょうか。
医学博士永井氏も被爆により健康が損なわれましたが、
実は、三ッ山から長崎へ戻る途中の、
「東洋のルルド」として、
アウシュビッツで知られるコルベ司祭の作った、今も水の流れているルルドに足を運んでいたそうです。
奥様の父方は代々かくれキリシタンのリーダーだったという
彼は、あえてフランスで「告解(告白)」したこともあるそうです。
いづれにしても、
200数十年活かし続けた「水」があるのではないかと思いました。
そのような中で身を潜めて継いできたキリシタンの人々には、
地区によってグループがあり、
潜めていた間も連絡はとられ維持されていたようです。
それを聞き、ナチ時代の色々な話をふと思い出しました。
しかし、
興味深いのは、その周辺から聴く事に、
「生月の方がかくれている」
「外海の方がかくれている」
「五島は建物だけになったところもある」
という意見が地元の人々の間でも様々あり、
本当だけれどそうとばかりもいえないところもあるようだということでした。
昭和に見つけられたという人々の子孫に継がれている生月では、
島の館という施設に様々なキリシタンの資料が保管され、観覧可能です。
外海地区では、多くの巡礼者が訪れ、
現役のかくれキリシタン(ふるキリシタン)の人々に、
気づかず出会っていても、不思議ではないようです。
また、五島には久賀島というところがあり、
インターネットでの交流も活発に行われているようです。
身近な人には身近、ということなのでしょうか。
そして、共通部分とそれぞれの部分とが大変に鮮明なのだということを感じました。
※
長崎市上野町の カトリックセンター には、
ユースホステルもあり、観光コーナーもあり、
巡礼資料のほか、
滞在中に長崎の歴史を聴くことのできる時間(夜20:00〜)もあります。
参考資料 後日UP
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